どんざ丸
北海道岩内町・木田金次郎美術館のスタッフブログです。
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針生一郎さんのこと
2月19日(木)の『北海道新聞』文化面に、
宮城県美術館「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」の記事が掲載されていました。

『北海道新聞』文化面(2015年2月19日夕刊)と『みづゑ』649号(1959年6月)
私(学芸員)も本気で仙台に観に行こうと思っていた展覧会。
ここは取り寄せた図録で我慢。
美術評論家・針生一郎さん(1925-2010)は、
2002年5月に木田金次郎美術館で講演して下さいました。
「木田金次郎の生涯と芸術」。
実は、針生さんから講演のお申し出があって実現したのですが、
帝銀事件の平沢貞通が登場したりで、とても刺激的なお話しでした。

針生一郎講演会「木田金次郎の生涯と芸術」
2002年5月18日 木田金次郎美術館

この講演会には、岩内町内外から100人が聴講。
会場は熱気を帯びていました。
そもそも針生さんは、
木田金次郎が初めて東京で開催した大規模個展
(1959年4月7日~13日・日本橋高島屋)の批評を、
美術雑誌『みづゑ』(美術出版社)に執筆されたことから、
ご縁がはじまっています。

『みづゑ』649号(1959年6月)
針生一郎による「木田金次郎作品展」評
『みづゑ』で針生さんは、
「…木田金次郎作品展は、美術界に自己検討のテーマを与えるような事件だった」と記し、
北海道岩内で描いている画家の存在を、世に広げました。
そればかりではなく、
『芸術新潮』1959年6月号にも展覧会評を執筆していることを、
2008年に当館で講演いただいた、
正木基さん(当時目黒区美術館学芸員)から
ご教示いただきましたが、
当時を代表する美術雑誌2誌で紹介したという、
針生さんの木田に対する想いがうかがえます。
針生さんとのご縁は、これにとどまりませんでした。
講演から2年後の2004年、
当館会報『群暉(くき)』40号(2004年秋)に、
「木田金次郎と橋浦泰雄―2002年5月講演の補遺―」をご寄稿。
当館の大きなテーマ「木田金次郎の交流圏」にかかわる
橋浦泰雄(1899-1979)への関心から、
「生活のたたかいを決して中断せず、そこから芸術に向かう原点を保持した」木田と橋浦を、
有島武郎の「相互扶助」思想を発展させた人物として評価しています。

木田金次郎美術館ニュース『群暉(くき)』Vol.40(2004年秋)
針生一郎「木田金次郎と橋浦泰雄―2002年5月講演の補遺―」
当館はテーマを深め、2006年に「橋浦泰雄―旅への導き」展を開催。
この展示を観に、針生さんが駆けつけて下さいました。
岩内を訪れた翌日には、
橋浦泰雄が民俗学研究を行うきっかけとなった、
青森県・下北半島の尻屋村を訪問するなど、
大病をされながらも、精力的に活動されていました。

「橋浦泰雄―旅への導き」展を観る針生一郎さん。
2007年7月31日 木田金次郎美術館
宮城県美術館の展覧会には、木田金次郎のことは紹介されていないのですが、
図録に、1959年の木田の個展評の記録が掲載されていました。

宮城県美術館 「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」図録
戦後の日本美術とともに歩んだ針生さん。
展覧会には、膨大な作品と資料が展示されているようですね。
今日の記事と、図録で、針生さんの業績をじっくりと偲ぼうと思います。

針生一郎と木田金次郎。
1962年4月、東京・日本橋高島屋「木田金次郎新作展」会場。
2度目の東京個展で、久しぶりの再会を喜び合っているよう。

講演で初めて岩内を訪れた日、雷電海岸にて。
左から木田敏斌さん(木田金次郎次男)、青塚誠爾さん(当館名誉館長)、針生一郎さん
2002年5月18日
(学芸員 岡部 卓)
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わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術
1月31日(土)~3月22日(日)
宮城県美術館
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宮城県美術館「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」の記事が掲載されていました。

『北海道新聞』文化面(2015年2月19日夕刊)と『みづゑ』649号(1959年6月)
私(学芸員)も本気で仙台に観に行こうと思っていた展覧会。
ここは取り寄せた図録で我慢。
美術評論家・針生一郎さん(1925-2010)は、
2002年5月に木田金次郎美術館で講演して下さいました。
「木田金次郎の生涯と芸術」。
実は、針生さんから講演のお申し出があって実現したのですが、
帝銀事件の平沢貞通が登場したりで、とても刺激的なお話しでした。

針生一郎講演会「木田金次郎の生涯と芸術」
2002年5月18日 木田金次郎美術館

この講演会には、岩内町内外から100人が聴講。
会場は熱気を帯びていました。
そもそも針生さんは、
木田金次郎が初めて東京で開催した大規模個展
(1959年4月7日~13日・日本橋高島屋)の批評を、
美術雑誌『みづゑ』(美術出版社)に執筆されたことから、
ご縁がはじまっています。

『みづゑ』649号(1959年6月)
針生一郎による「木田金次郎作品展」評
『みづゑ』で針生さんは、
「…木田金次郎作品展は、美術界に自己検討のテーマを与えるような事件だった」と記し、
北海道岩内で描いている画家の存在を、世に広げました。
そればかりではなく、
『芸術新潮』1959年6月号にも展覧会評を執筆していることを、
2008年に当館で講演いただいた、
正木基さん(当時目黒区美術館学芸員)から
ご教示いただきましたが、
当時を代表する美術雑誌2誌で紹介したという、
針生さんの木田に対する想いがうかがえます。
針生さんとのご縁は、これにとどまりませんでした。
講演から2年後の2004年、
当館会報『群暉(くき)』40号(2004年秋)に、
「木田金次郎と橋浦泰雄―2002年5月講演の補遺―」をご寄稿。
当館の大きなテーマ「木田金次郎の交流圏」にかかわる
橋浦泰雄(1899-1979)への関心から、
「生活のたたかいを決して中断せず、そこから芸術に向かう原点を保持した」木田と橋浦を、
有島武郎の「相互扶助」思想を発展させた人物として評価しています。

木田金次郎美術館ニュース『群暉(くき)』Vol.40(2004年秋)
針生一郎「木田金次郎と橋浦泰雄―2002年5月講演の補遺―」
当館はテーマを深め、2006年に「橋浦泰雄―旅への導き」展を開催。
この展示を観に、針生さんが駆けつけて下さいました。
岩内を訪れた翌日には、
橋浦泰雄が民俗学研究を行うきっかけとなった、
青森県・下北半島の尻屋村を訪問するなど、
大病をされながらも、精力的に活動されていました。

「橋浦泰雄―旅への導き」展を観る針生一郎さん。
2007年7月31日 木田金次郎美術館
宮城県美術館の展覧会には、木田金次郎のことは紹介されていないのですが、
図録に、1959年の木田の個展評の記録が掲載されていました。

宮城県美術館 「わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術」図録
戦後の日本美術とともに歩んだ針生さん。
展覧会には、膨大な作品と資料が展示されているようですね。
今日の記事と、図録で、針生さんの業績をじっくりと偲ぼうと思います。

針生一郎と木田金次郎。
1962年4月、東京・日本橋高島屋「木田金次郎新作展」会場。
2度目の東京個展で、久しぶりの再会を喜び合っているよう。

講演で初めて岩内を訪れた日、雷電海岸にて。
左から木田敏斌さん(木田金次郎次男)、青塚誠爾さん(当館名誉館長)、針生一郎さん
2002年5月18日
(学芸員 岡部 卓)
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わが愛憎の画家たち―針生一郎と戦後美術
1月31日(土)~3月22日(日)
宮城県美術館
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