絵一筋六十余年 ますます意気盛んな浜田五郎さん

 この地域で現在 絵を描く人は絵の町といわれるだけあって少なくはないが、その制作活動の広がりや深まりを考えれば浜田さんの右に出る人はいないだろう。お聞きしたいことは沢山あったが「絵を描く」この一点に絞り話していただいた。

 浜田さんは昭和4年(以下昭和略)岩内生まれ。岩内高校卒業後に美術科の教員として管内中学校を歴任し平成2年共和中を最後に退職した。高校時代からふるさとの自然を対象に旺盛な制作活動を続け個展開催や各種公募展に出品し入選入賞を重ねてきた。今なおキャンバスに向かい筆を執り個展を開こうと気力十分である。この絵を描かんという迸り出るような情熱はいったいどこから生れてくるのか。

浜田1

 まず絵が好きになったのは小学校高学年の担任だった中山先生の影響が大きかった。旧制岩内中、新制岩内高当時は美術の安原先生の指導もあり絵の好きな仲間で緑陰会を作った。習作の格好な場所だった学校近くの神社の杜が由来だが、イーゼルを立てよく絵を描いた。1期上の山岸正巳、池田敏万、同期の大倉正美達がメンバーた。作品を発表する場として岩内信金会議室を借り受けた。ポスターは手書き、プログラムは謄写版刷りと夜遅くまでかかって準備し初の展覧会開催にこぎつけた。展覧会出品という契機もありこの後本格的に油絵も描くようになった。木田からは具体的な指導こそ受けなかったが、その徹底した観察と現場主義といった画業に対する厳しい姿勢から多くを学び受け継ぎ現在まで守り通してきた。
24年、安原先生に道展出品を勧められ20号の地元風景画「海と集落」を描き自分で会場の今井百貨店に搬入展示、これが初入選となった。ちなみにその年の総入選数は117点。岩内からは8名。その後25年「崖」、26年「漁港」、27年「漁港」、28年「街の隅」30年「漁港」と入選を重ねる。教員になる前は兄の仕事を手伝ったり漁船に乗ってイカつけしたり、その稼いだお金は絵の具代となった。
30年大潮展出品、36年小野垣哲之助さんの勧めで行動展出品と活動の幅を広げていく。40年道展会友に推挙され44年には会員となり画家として自他共に認められる存在となった。平成25年の道展出品作は「迎春海岸」F100の大作。54年岩内美術協会会長となり地元の美術仲間をリードする。
57年岩内ロータリークラブ創立20周年記念事業として発刊された木田の本格画集の編集顧問として参画、以後美術館設立に向けて考える会に参加、また開館後は美術振興協会の副会長としても運営に尽力した。個展は主に札幌市内大丸藤井、時計台画廊を会場に連続30回を数える。木田美術館でも4回開催。またホテルうきよギャラリーの個展も多かった。

浜田2

 浜田さんはふるさと岩宇の自然表現にこだわった。画家の観察眼で対象をとらえ丹念に絵の具を重ねる。納得するまで現場に行きリアリティを追求した。海外の美術館にも17回行った。青塚さんとも2回だ。ギリシャ、フランス、イギリス、フィリピン等毎年のように出かけいい絵を見て先達の絵の心や技術を吸収した。大きな衝撃を受けたのはパリのオランジュリー美術館。印象派のモネ晩年の大作「睡蓮」を見た時だ。そこに木田の描画と余りにも相通ずるものを見出したからだ。見るだけでなく各地で制作もした。50号の大作「秀峰ツルマット」は完成までに3回スイスの現地へ赴いた。作品はフランスやイタリアの国際的な展覧会に出品入選受賞。こんな活動が評価されたのかサロン・ド・パリ委員に推挙され平成17年には国際絵画彫刻展栄誉賞を受けた。

 美術協会退会後に志を同じくする画家、有望な新人たちで岩宇美術家集団を結成、代表となり毎年木田美術館で作品展を開催、意欲的な作品発表の場を提供した。文化センターを会場に小学生向けの絵画教室を個人の立場で開いたりもした。

 画業に携わってから六十有余年、絵への情熱は衰えることなく強烈な個性と相俟ってこの道を歩み続けることだろう。どうか健康に留意されご活躍を祈ります。
(O・Y)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
RSSリンク
QRコード
QRコード
  1. 無料アクセス解析