木田金次郎の画室(開かずの間):後編

行ってみたところ、北海道新聞岩内支局長の伊藤さん、青塚誠爾さん、帰厚院の梅庭昭寛さん、8ミリ友の会の今井郁夫さん、吉田館長、瑠璃子さんがいらっしゃいました。
まず全員で仏壇の前で、梅庭さんが読経し、これから画室に入室させてもらいますと合掌した次第です。(ちなみに、帰厚院は木田家の檀家寺ではないとのことです。文子夫人が梅庭昭寛さんに強い信頼を置いておられたのだそうです)。

梅庭さんが持参されたお香の薫りが素晴らしく、木田夫妻への十分な供養になったのではと思ったことでした。
さて、画室の入り口にかかっている南京錠の鍵がありますかと瑠璃子さんに尋ねたところ、「持ってない」とのことでしたので、それでは、今日ここに集まった意味がないと思ったので、私が瑠璃子さんに錠前をネジごとはずすが良いかと了解を求め、木ねじを外そうとしたのですが外せず、止む無く清本係長にねじ回しでこじ開けさせたのです。

室は居間に続いた東側の、8畳?程の部屋だったと記憶しています。
部屋の北側に押入れがあり、押入れの戸は外されており、キャンバスを捲いたようなものや額に入った絵などが置いてありました。
部屋のやや中央には木製の事務机がありました。瑠璃子さんの立会いの下、机の引き出しの中を改めましたが、特別なものはありませんでした。机のそばの柱の小さな棚には、子供さんたちが幼いころ遊んだのではないかと思われる木製玩具が置いてあったのが印象的でした。

美術館開館にあたって必要と思われる品々を探し終えたので、新しく発見された絵をどこに保管するか打ち合わせたのですが、これまの吉田館長が木田夫人の相談役でもあったことなどもあり、一応耐火構造の郷土館へ運ぼうではないかということになりましたが、当時の郷土館は老朽化が激しく、野鳥が郷土館の中に入り込むような状態だったので、はたして郷土館で良いのかといぶかる声もあったように思います。

なぜ、木田文子さんが画室の入り口に施錠し、開かずの間としたのか、ご夫人から直接聞くことはできませんでしたが、吉田館長さんから聞いたところでは「木田金次郎亡き後、雑誌記者や画商など様々な人々が木田邸を訪れたらしく、一人住まいの夫人は、金次郎亡き後も、全くそのままの状態で画室を保存したいと思っていたところ、こうした来客を断ることもできず、止むなく施錠するにいたったのではないか」と話してくれました。吉田館長は木田の画室を「開かずの間」と言っており、私たちも吉田館長にならい、木田金次郎の画室を「開かずの間」と呼ぶようになった次第です。

梅庭さんは私に、「美術館に学芸員を置かないなんて考えられないよ」と云っておられましたので、岩城町長に伝えなければと思っておりましたが、その前に、岩城町長が久米君(開館当時の学芸員)を採用し、企画課に配属してくれました。
岩城町長は私が進言するまでもなく、窪島誠一郎さんから学芸員を配置すべきことを助言されていたようです。
以後、私と清本係長の事務量が大きく減り、久米君が町内に応援者を得ながら、大いに頑張ってくれて、今日の美術館があるものと思っております。

(M・N)
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