神田日勝記念館―菅訓章館長を偲んで―

 8月になり北海道も月遅れのお盆を迎える頃となりました。
思い出多き方々を偲ぶ季節でもあります。
今年1月12日十勝の神田日勝記念館館長の菅訓章さんが65才で亡くなりました。
間もなく新盆を迎えます。

 1937年東京都練馬で生まれ、1945年北海道鹿追町に入植した開拓農家の次男として育った神田日勝は「結局、どう云う作品が生まれるかは、どう云う生き方をするかにかかっている」と語り、農作業と共に好きな絵を描き続け1970年8月32歳でこの世を去りました。
木田金次郎は1893年7月岩内町に生まれ、家業の漁業を続けながら絵と向きあい「作品は人です。人間が鍛え上げられて、りっぱにならなければ、いい絵は生まれるはずはありません」と数々の傑作を残し1962年12月69歳で亡くなりました。
農民画家と呼ばれ、漁夫画家といわれた二人は生涯を北の大地の自然や身近な対象を画題に制作を続けました。

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海と大地の邂逅「木田金次郎と神田日勝」展 図録より

 1984年鹿追町で、1987年岩内町で、ほぼ同時期に二人の画家の地元でそれぞれの記念館、美術館を作ろうという市民運動が始まりました。
鹿追町では以前より神田日勝を支援してきた「ランプの会」が母体となり「神田日勝記念館建設実行委員会」が組織され、真言宗鹿追寺二代目住職で教育委員会職員の菅訓章さんが事務局長として記念館実現に奔走しました。
岩内町では若者中心に25名のメンバーで「木田金次郎美術館を考える会」が発足し、活動費も自前で多角的な視点で美術館建設運動が活発に進められました。同じ頃、競うように始まった地元作家の記念館、美術館の建設実現の運動はやがて多くの人々のバックアップと行政機関の理解も深まり1993年6月に「神田日勝記念館」が、1994年11月に「木田金次郎美術館」が誕生しました。

 今年の新年早々新聞報道で菅訓章さんがまだまだ働き盛りの65歳で旅立った訃報を目にし、20年余り前、地域の芸術文化の振興発展に互いに競い合い、意識し合って汗を流した事を思い出し感慨深いものがありました。孟蘭盆も終え、あらためてご冥福をお祈りいたします。(M.T)
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